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1.「癒しの島」と名付けた理由 ・・・ (2019/06/28)


 当時の私はまだ40才そこそこだったかと思います。業界をまたいで別分野に転職。分野そのものは好きなパソコンソフトの世界(業界団体)だったが組織のトップが悪かった。といっても犯罪とかなにかではなく、ただただいい加減な人だったのだ。そんなだから若い人を採用しても幻滅してか次々に辞めていく。中間管理職も保身になって部下の面倒を見ていなかった。この組織のマネジメント・トップになって私がやったことは、とにかく愚痴でもなんでも聞いてあげて、組織を落ち着かせること。

 スタッフを落ち着いて働いて貰うようにしたのは良いのですが、それら多くを受け取った私がストレス一杯になった。このままではまずいとトップに宣言し、ある大きな行事が終わったら休暇を取りますから、と宣言した。多分、私の雰囲気が「No」とは言わせない様子だったようだ。「いいじゃない」との返事だった。さて、行き先をどうしようか。たまたま立ち寄った神田駅前にあった旅行会社の店先に並んだカタログスタンドにあったチラシを見ていた。いくつか見ていた中で目に止まったのがフィジーのツアー(といっても、飛行機と宿泊先の手配のみ)のチラシ広告だった。カラーページの冊子形式のツアーパンプレットに掲載されるような旅行先と違って、急いで客集めをするために用意したらしい確かピンクの色紙に黒インキ一色で印刷した簡単なものだった。その分安いのが取り得のようなツアーだった。

 実はこれがマナ島旅行のパンフレットだった。最初は特に行きたい先があった訳ではないので、フィジー?まだ行ったことがないのでいいんじゃない?くらいのノリだった。旅行の申し込みをしていて、その時点で始めて行き先が島だということを知ったのだから、なんとも計画性のない旅行申込だった。


 当時、親と同居だったもので、小学生だった子供たちを親に頼んで家内と二人だけで旅行に出た。飛行機で到着したナンディ国際空港、ムワッと暑さが押し寄せてきた。航空を出て送迎バスで港まで連れて行かれた。ここから船でマナ島まで行くのだという。

 マナ島へ行く方法はその後飛行機となり、さらに現在は高速艇(船)に戻った。当時の船はのんびりしたもので、途中の島に立ち寄りながらマナ島まで行ったもので数時間かかっていた。  私が好きだったのはこれ。出港後手の空いたスタッフが上部デッキでギターを弾きながら歌を歌ってくれたのだ。

 何曲か歌ってくれた中に「
いつまでも絶えることなく友達でいよう」とたどたどしい日本語で歌ってくれたのにはびっくりした。一体どこで覚えたのだろうか。


 すっかり私はフレンドリーなフィジアンの虜になった。その後島に到着する際にもマナ島のホテルスタッフが桟橋まで出迎えに来てギターを弾きながら歌を歌ってくれた。これらは何もフィジーに限ったことはないのだろうが、人間、期待もしていなかったことが不意に起こるととても印象に残るものだ。




 マナ島での生活は都会のストレスの溜まった私にとってとても「癒し」になった。例えば、昼間からビーチに面したレストランへ行き、キンキンに冷えたビールを注文。今頃日本では皆さんあくせく働いているのだろうなと想像するだけで溜飲を下げる思いだった。またフィジアンの対応もそれに輪をかけて素晴らしかった。何がか?と言えば、スタッフ(主に女性たち)が愛想笑いをしなかったこと。こちらが笑顔で接すると笑顔が返ってくる。これがなんとも正直で好きだった。

 過去の書き込みを見ても、ある女性などは、こうした素朴なフィジアンの女性たちとのたった数日の触れあいですっかり魅せられてしまい、島を離れる時にはその辛さに涙、涙の別れだったそうである。反対に、不機嫌で島を去った日本人もいたようだ。聞けば、「高い金を払っているのだから、楽しませてくれるのだろうな」といった態度の人だったようだ。先にも言ったように、お愛想笑いなどしない人達。不機嫌な顔の人にはそれなりの対応しかしてくれなかったようだった。

 素朴な感じのフィジーに私もすっかり魅せられてしまった訳だ。このホームページ、「ようこそ癒しの島、マナ島へ」を立ち上げて、何通もいただいたメールの中には、多くの「私もマナ島に癒されました」のメッセージがあった。とまあ、こんな具合にマナ島ホームページによる交流が始まったのだった。



※ 上記、4つの写真のうち、右側の2つは私自身が撮影した写真だが、当時の解像度の低いデジカメだが、明るい場所でのものは、そこそこ良く写っていた。



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